おみそコラムcolumn
ニッポンの文化を見直そうVol.18 ~変遷あれど、今でも年越そばは健在なり!ただ、なぜ大晦日にそれを食べるのかは知られていない〜
本来は月の末日に、さっと食べるためのものだったのに…
大晦日に、おせち料理を作り、大掃除をし、そばを食べる_、これが本来の12月31日の過ごし方である。昨今は、おせち料理は、百貨店や料理屋で注文するものとなっており、家庭で作るところが少なくなっている。元来、おせちとは、御節供(おせちく)や節会(せちえ)の略で、おせち料理は、歳神様へお供えをして年が明けてから食べるものとされていた。江戸時代に庶民に広まったもので、それまでは正月だけでなく、元旦の他、五節句などの節日に神様にお供えしてから食べていたそうだ。正月のみが際立ったのは、三が日ぐらいは竈(かまど)の神様に休んでもらおうとの意味があったからだ。お重にきれいに詰めるのは明治以降の流行。その昔は膳に盛ったものと、お重に詰めたものを用意し、前者をおせちと呼んでいたそうだ。ちなみに後者は食積(くいつみ)と呼んでいる。こうしてみると、おせち料理も時代とともに変化して来ていることが分かる。だから将来、おせち料理は大晦日に料理屋から届くものと定義づけられてもおかしくないかもしれない。
大晦日とは、一年の締めくくりの日で、おおつごもりともいう。みそかは、三十日と書き、本来は月の三十番目の日を指した。それがいつしか月の最終日を意味するようになったのだ。今では、大晦日ぐらいしか「みそか」と表現することはなく、字も「晦日」と表記される。「晦」は月の満ち欠けを表し、月が隠れることをいう。旧暦は月の満ち欠けで日が決まっていたので、新月を1日とし、30日を晦日と呼ぶようになっていた。
ところで大晦日につきものなのが、そばを食べる習慣。こちらは、簡単なためか、今でも家庭で続いている。年越しそばについては、細く長いことから長寿を願ってとの意味や、そばが切れやすいことから一年の労苦(災厄)を断ち切り、翌年に持ち越さないとか、五臓の毒をそばが取り去るなど色んな意味が伝えられているが、由来が何であれ、江戸時代に流行したのは確かなようだ(そば切りは室町時代にできて、江戸期に流行したので当然といえば、当然であろう)。江戸中期には、商家にて月末日に三十日蕎麦を食べる習慣があったと伝えられている。商家にとって月末は忙しい。そばのようなさっと食べられるものが重宝され、その食文化がいつしか根づいた。それがどうやら晦日といえばそばになり、大晦日の年越しそばに繁って行った。
年越しそばは、12月31日のいつ食べてもいいらしい。でも多くは夕飯に食べたり、間もなく年をまたぐであろう23時頃に食べたりする。関西で食されるそれは、昆布だしと淡口醤油で調味したもの。つゆの色は薄めで、出汁を利かして作る。片や関東では、地域性もあって鰹だしと濃口醤油で作る。色は濃いのが特徴で、華やかさもあって天ぷらを載せる所が多い。おみそコラムなので、味噌を使った年越しそばにも少し触れておきたい。くるみそばなるそれは、潰したくるみと味噌や練りゴマ、砂糖などと一緒につゆに混ぜて出す。そのつゆに蕎麦を漬けて食べるのだ。長野や秩父にはその手のものを売りにする店もあって甘めの濃厚だれがそばに合うと言われている。
ところで、このコラムは、「ニッポンの食文化を見直そう」なので、よく文化がすたれたことを嘆いているのだが、年越しそばに至ってはいくら生活が洋風化しようと、それがなくなる傾向にはまだまだない。何せ統計では、12月31日が一年で一番そばが売れる日となっているのだから…。(2022/12/22)
(文/フードジャーナリスト・曽我和弘)