おみそコラムcolumn
ニッポンの文化を見直そう10~今のおでんのルーツは、こんにゃく田楽にあった?!
こんにゃくから紐解く田楽から関東煮までの変遷

 前回、疫病と御霊会(ごりょうえ)の相関を書いたが、昔の人は、何とか疫病や飢饉を鎮めようと、神に祈った。それが御霊会の始まりであり、後の神社行事へと発展していく。その行事から風流や田楽と呼ばれる踊りができていったのだ。この手の寺社行事が夏に多いのは、疫病が多発する季節だからで、それが起こると起こらざるに関わらず、夏祭りを催して疫病を防ごうとしたのである。田楽と味噌田楽の話は、すでに「ニッポンの文化を見直そうvol.3」で触れた。豆腐やこんにゃく、茄子に味噌を塗った料理は、今でも和食の一部として残っている。
 江戸時代に「豆腐百珍」という本がベストセラーになるが、これは今でいう豆腐のレシピ本。当然、この中にも豆腐田楽は紹介されている。百珍ものとしては、幕末の弘化3年(1846年)に「菎蒻百珍」が出版されている。豆腐同様、こんにゃくも色んな料理法があったことからこの本が出たと思われる。こんにゃく田楽が流行ったのは、元禄期ではないか。こんにゃく料理は、江戸庶民の好みだったようで、こんにゃく田楽も瞬く間に江戸市中に広まったのだろう。こんにゃくといえば、茨城県の久慈のものが有名で、水戸藩では専売品として財政を支えていた。こんにゃく芋を粉末にする手法ができてから全国的に栽培されるようになる。それを考えたのは、水戸藩中にいた中島藤右衛門。かつてこんにゃくは腐りやすく、重いので遠くまで売るのが難しかった。ところが中島藤右衛門はこんにゃくの生芋を薄く輪切りにして串に刺し乾燥させて砕いて粉にする方法を考えついたのだ。かくして軽くなって貯蔵もしやすくなり販路が増拡大。製粉化によって今日の礎が築かれている。 
 近江八幡の周辺では、赤こんにゃくが作られている。これは製造過程で三二酸化鉄を入れて赤く着色したもの。これには織田信長が絡んでいる。白いこんにゃくを赤に染める手法は派手好きの信長の好みだったのか、赤こんにゃくを作るように命じたと伝えられる。

 ところで日本人は、いつからこんにゃくを食して来たのか。こんにゃく芋は、タイやミャンマー、マレーシアなどが原産とされる。縄文時代に伝わったといわれるが、実は定かではない。食用としては、唐の時代にこんにゃく芋を灰汁で煮て食べたとの記述があるので日本には仏教とともに入って来たのかもしれない。司馬遼太郎氏の「街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち」を呼んでいると、こんにゃくに関する文章がある。氏が取材で四川を訪れたところ"蒟蒻"なる文字は現地では通用しなかったそう。西晋の時代(三国時代の後)に左思(さし)なる詩人がいて彼の「三都賦(さんとのふ)」に「其圃(そのほ)は則ち蒟蒻、茱萸(しゅゆ)有り」と出て来ると司馬遼太郎氏は書いている。ところが漢語であるはずの"蒟蒻"は中国には今はなく、芋角(ユージユエ)という言葉で表現するらしい。
 おでんとは、今のような醤油で煮込んだものを指す言葉ではない。言葉の由来は"田"に女房詞(にょうぼうことば)の"御"がついたもので、その文字からわかるように味噌田楽が本来の姿なのだ。それが東国へ伝わり、関東大震災の炊き出しとして醤油で煮込む料理に転じた(醤油で煮込むおでんは、江戸後期に銚子や野田で醤油づくりが盛んになって誕生したとの説もある。味噌で食べていたものが明治時代に汁気の多いものになって大正時代に関西に伝わって来た。東京人が持ち込んだそれは田楽と区別されていた。関東大震災の炊き出しでその改良版を関西の料理人がふるまって一挙にメジャーになったとも伝えられる)。だから関西では、関東煮(かんとうだき)と呼んで区別して来たのだ。それがいつしか関東の呼び名「おでん」に変わってしまった。岡田哲著の「たべもの起源事典」には、「おでんの元祖のこんにゃく田楽」とある。ならば、おでんはこんにゃくが主食材でなければならない。料理としての田楽の始まりは、室町時代。拍子木型に切った豆腐を串に刺し、辛味噌をつけた、いわゆる豆腐田楽が広まった。江戸時代には田楽の種類が増えてこんにゃくに茄子、里芋、魚もお目見得している。大坂町奉行を務めた久須美佑雋が「浪速の風」(風俗・食物・人情などを記した随筆)で「この地にてもこんにゃくの田楽をおしなべておでんという」と書いている。つまり筆者は、おでん=こんにゃく田楽と結論づけようとしているのだが、少々乱暴な結びつけ方かもしれない。今のおでん(醤油で煮込んだもの)というと、思い浮かぶのは屋台で一杯飲るシーン。ドラマや映画でやたら出て来るためにそんな印象がついてしまっている。これとて「守貞謾稿」(江戸後期の風俗を喜田川守貞が記したもの)に出て来る上燗オデンがもとではなかろうか。ここには燗酒とこんにゃく田楽を売ると記されていて、これを上燗オデンと称している。こんにゃくは成分の大半が水で、栄養もなく、味気ないものだが、なぜか日本料理には必要な脇役として存在して来た。しかし、歴史を紐解けば語ることがいっぱいだ。そんな不思議な食べ物だが、現在の食文化に至る道のりは、味噌田楽から端を発していることを忘れてはならない。(2020/5/28)
(文/フードジャーナリスト・曽我和弘)
<著者プロフィール>
曽我和弘
廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと出版畑ばかりを歩み、1999年に独立して(有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。食に関する執筆が多く、関西の食文化をリードする存在でもある。編集の他、飲食店プロデュースやフードプランニングも行っており、今や流行している酒粕ブームは、氏が企画した酒粕プロジェクトの影響によるところが大きい。2003年にはJR三ノ宮駅やJR大阪駅構内の駅開発事業にも参画し、関西の駅ナカブームの火付け役的存在にもなっている。現在、大阪樟蔭女子大学でも「フードメディア研究」なる授業を持っている。